2017年9月30日
今月13日は日蓮聖人ご入滅のご聖日です。
『お会式』をお迎えするにあたり、日蓮聖人が多難の生涯を終えられる最期のお話を振り返りたいと思います。
日蓮聖人のご生涯は大難四ヵ度、小難数知れずと言われるほど多難のご生涯です。
常に命の危険に晒されながらも、法華経弘通の一心で布教をされました。
また晩年は、現在日蓮宗の総本山である身延のお山に籠もられ、お弟子様やご信者の教化に力を注がれました。
ところが、体の具合が芳しくなく、お弟子様やご信者の方に湯治を薦められます。
日蓮聖人はお父様、お母様のお墓参りに詣でた後、療養のため常陸の湯へと向かいます。
しかしその道中、武蔵国池上(東京都大田区池上)の地主であった池上宗仲公の館の前で倒れられます。
臨終の日が近いことを悟った日蓮聖人は、自身亡き後のことをお弟子たちに託し、10月13日午前8時頃、お弟子様やご信者の方が見守る中、そのご生涯を閉じられました。
日蓮聖人は、お母様の遺髪を肌身はださず持っていたと言われています。
この事は、お弟子の誰も知らない事であったのですが、お亡くなりになる前にその遺髪をお弟子の日朗という方に託されます。
そして、このように遺されます。
「この母の遺髪は私と共に荼毘に附してほしい」と。
日蓮聖人は幼い頃に出家し、法華経弘通に身命を賭した身です。
そのために、両親へ孝行出来なかったという申し訳ない気持ちがあったのだと思います。
しかし、出家の身でありながら、母の遺髪を肌身はださず持ち続けていたことは、恥ずべき行為だと自覚されていたのだろうとも思われます。(現代人の感覚と少し違うので伝わりにくいかもしれませんが)
それ故、この事をお弟子の日朗にだけ伝え、共に荼毘に附してほしいと願われたのです。
しかし、その遺髪は今も池上の地(大本山 池上本門寺)で現存しています。
日朗聖人は、日蓮聖人の母を思う気持ちを後世に伝えるべく、遺命に背いたのです。
このお話は、宗教者としての日蓮聖人ではなく、人間としての日蓮聖人を垣間見ることのできるエピソードです。
もし日朗聖人が遺髪を荼毘に附していたら、このような話が後世に残っていなかったかもしれませね。