『無我』

2020年1月8日

仏教を少しでも知っている人であれば、この『無我』という言葉は聞いたことがあると思います。

「無我の境地!」なんて言ったりしますよね。

英語で表すと、『selflessness(セルフレスネス)』

対になる言葉としては『自我』ですね。

英語で表すと、『ego(エゴ)』

これもなんとなくわかりますし、「自我を捨てよ!」なんて言ったりしますよね。

 

でも実際のところ、『自我』とか『無我』ってよく分からないって人が多いと思います。

『自我』や『無我』を状態や思想として捉えるのではなく、『モノの見方』として捉えるとわかりやすいかもしれません。

 

仏教というのは、自我という『モノの見方』から、その自我を滅して、無我という『モノの見方』へ昇華していく思想として周知されています。

仏教学者の故梶山雄一氏は

「一般に人は、自己を中心として、その周囲に他人や動植物や自然を従えた円周として生きている。世界とは、人間の数だけあるこのような円周の総体である」

と、おっしゃっておられます。

なるほど。

とてもわかりやすい。

上記のような『モノの見方』が『自我』です。

 

『自我』・・・自分というものを中心としたモノの見方、自分を中心として世界を眺めること。


このような『モノの見方(自我)』から脱却すべしと示されたのが、他でもないお釈迦様であり仏教です。

その境地が『無我』となるわけです。

 

『無我』・・・全体(世界)を中心として、自分を捉えていくこと。世界の中にいる自分というモノの見方

 

家族(全体)の幸せを考えた時に自分に何ができるか。

組織(全体)の幸せを考えた時に自分に何ができるか。

日本(全体)の幸せを考えた時に自分に何ができるか。

地球(全体)の幸せを考えた時に自分に何ができるか。

 

『自我』と『無我』は180度違う『モノの見方』です。

ですので、『モノの見方』が変わると世界は激変します。

メディアが報じる様々な社会問題も、人間がそれぞれ『無我』と呼ばれる『モノの見方』で万事取り組めば、なんだか解決の糸口が見えてきそうな気もします。

そう簡単にいかないのが人間社会ではありますが、これを分かっている人とそうでない人では、見えてる世界が全く違うことは理解できるはずです。

 

今生きている世界が幸せな場所となるために。

自分に何が出来るのか。

誰しも認めるような立派なことでなくていい。

自分にできることを。