事実をありのままに見ること

2018年4月26日

先だっての『心と向き合う瞑想の時間』にお越しくださいました方々、誠にご苦労様でございました。

まだまだ認知はされていませんが、コツコツやってまいりたいと思います。

さて、タイトルにもなっている『事実をありのままに見る』ということ。

先日の『心と向き合う瞑想の時間』にご参加いただいた方々には、お話しさせていただいたのですが、これは仏教が教えてくれることの中でも、非常に大切なところです。

仏教では、『事実をありのままに見る』ことを『正しく見る』と書いて『正見』と言います。

私は、今この『正見』にハマっています。

なんだか変な言い方になってしまいましたね(笑)

でも、とても大切なポイントで、理解が深まれば今自分が見ている景色も変わってきます。

では、仏教が教えてくれる『ありのままに見る』ということは、どういうことなのか?

『見』という言葉が入っているので、視覚を使ってお話した方がわかりやすいのですが、自分の体験を元になんとか文章で表現してみようと思います。

 

少し前の話なんですが、私、車を『ぶつけられました』。

状況をご説明します。

駐車場内で私が出口に向かって走っていたところ、目の前を走っていた車が止まったので、私もブレーキをかけ止まりました。

すると前の車がギアをバックに入れ、空いているスペースに駐車しようとしました。

このままだとぶつかってしまうと思い、慌ててギアをバックに入れ回避しようとしたのですが、間に合わずに

『ドン!』

 

この状況、皆さんならどのように判断されますか?

この時、私が下した判断は、

『状況的に自分は悪くない』

『前の車の方が後方確認を怠ったからぶつかった』

ということです。

 

色んな捉え方があるかと思いますが、私はその時、咄嗟にそのように判断しました。

ですが、これは事実をありのままに見ていないんです。

 

冒頭で、私は『ぶつけられた』と表現しました。

ごく一般的な価値観で見ると『ぶつけられた』になると思います。

ですが、事実をありのままに見ると『ぶつけられた』とはならないんです。

ではどのようなるのか?

答えはこうです。

 

『ただ、車がぶつかっただけ』

 

ぶつけられたと判断している時点で、明らかに視野が狭くなっているのがわかるでしょうか?

ぶつけられたと判断していると、その後も被害者意識で対応してしまいがちですが、『ただ車がぶつかっただけ』と、事実をありのままに見ることができていれば、相手の運転手の方に怪我がないかなどの気遣いができたかもしれません。

その時、私はぶつけられたと思ってしまったため、どうしても被害者意識を強く持ってしまいました。

ですが、後で冷静になって考えて見ると、よくない判断をしていたなと思います。

 

以前、『原因の捉え方』というタイトルでブログを更新しましたが、その時の内容も、『正見』に関わる話なので、よければ覗いて見てください。

以下のリンクからアクセスできます。

 http://honsyouzi.net/blog/46.html

この時のお話も、事実をありのままに見るのなら、『ドアを開けっ放しにされた』ではなく、『ただドアが開いているだけ』です。

 

怒りっぽかったり、よくイラっとしてしまう人は、主観で物事を判断する癖が強いから。

つまり、『事実をありのままに見ていないから』です。

ですが、なかなかそんな風に物事は見えないです。

私も、口にこそあまり出さないものの、度々イラっとすることがありますし、時には怒りが沸点に達することもあります。

それは、欲の働きであり、人間には当然あるものとして備わっているので、そこを否定する必要はないんです。

 

私自身、強欲な人間です。

強欲な人間でありますが、事実の捉え方(正見)を理解しておくことで、一時的に冷静さを失うことがあっても、時が経てば見えていた景色が少し変わります。

柔軟性のある考え方を育むためには、とても大切な教えであると受け止めています。