ホームページをご覧頂きありがとうございます。本昌寺副住職の泰丈です。
私は思春期を迎える頃、お寺に生まれたという事が嫌で仕方ありませんでした。
「おまえの家は人が死んだら儲かるんやろ?」なんて言われたこともありました。
長男として生まれたために、お寺を継がなければならないという無言の重圧を感じる環境も嫌でたまりませんでした。
お寺を継ぐことが嫌で、何か他にやりたいことが見つかればと思いながら高校時代を送っていましたが、これだ!と思えるものが見つかることはありませんでした。
もしかしたら心のどこかで諦めていたのかもしれません。
周りに説得されるままに、未来の日蓮宗僧侶を養成する宗立学寮へと入寮したのですが、入寮初日に普通の大学生のような生活を送れない事に落胆し、入寮したことを後悔しました。
なんとかしてやめる事はできないだろうかと考えているうちに1年が過ぎ、2年が過ぎ、4年が過ぎ・・・卒寮の時を迎える頃、周りには苦楽を共にした仲間がたくさんいて、ここでしかできないような経験を与えて頂いた学寮に感謝する自分がいました。
あれから10数年、ご縁のある方々に育てて頂きながら僧侶としての経験を積ませて頂いています。
今、お寺の存在意義が問われています。
生活者の意識調査では、お寺やお坊さんの必要性を感じないという方が結構な割合を占めています。
しかしながら、世の中に蔓延する悩みや問題は尽きることなく、社会の目まぐるしい変化の中で、その姿は想像以上に複雑化しています。
本来そういった悩みや問題に応えるべき仏教は、その機能を失ってしまっているのが現状です。
仏教自身の潜在能力(ポテンシャル)は充分なはずなのに、それを現代に伝えることの難しさを痛感する日々です。
しかしながら、現代社会・地域社会が抱える問題に目を向け、お寺の持つ可能性を模索して参りたいと思っています。
『天上天下唯我独尊』という言葉は、世間的な地位や個々の能力があるとかないとかに関わらず、何よりも尊い自分を見つける事の大切さを説いた言葉です。
比べる事は苦しみを生み出します。
比べる事をやめ、自分自身のいのちの尊さ、他者のいのちの尊さ、一つ一つのかけがえのない命の存在に目を向けていく事が大切であると思います。
当山の檀信徒、当山とご縁のある方々が、仏様の智恵を頂く事の出来るような、そんなお寺作りをして参りたいと思います。
私はまだまだ知識も経験も浅い若造です。失敗してしまうことも多々あるかと思いますが、皆様のお支えを頂いて、僧侶として成長させて頂ければ有難く存じます。